2023年8月23日水曜日

翻訳で難しいのは「日本語の部分」だけなのか

「難しいのはむしろ日本語です」の意味は、「日本語に悩む方が多いです」

  8月17日(木)の『徹子の部屋』に、映画字幕翻訳家の戸田奈津子さんが出演されて話題になりました。物腰の柔らかな素敵な人物で、スターの横に立って通訳されている姿とはまた違った一面を見ることができ、一視聴者として番組を非常に楽しみました。

 今回もまた「例のあの件」はおっしゃるのだろうかと、全集中で視聴していたところ、やはりおっしゃっていました。「例のあの件」とは、「字幕翻訳で難しいのは英語ではない、むしろ日本語の部分だ」というあの件です。

 この発言は昨年の『トップガン・マーヴェリック』のトム・クルーズの来日プロモーション後の戸田奈津子さんに対するインタビューの中でも出ていたので、「翻訳に英語力は大していらない、必要なのは日本語力だ」という誤った印象が独り歩きしてしまわないかとずっと危惧していました。

 今回は、次のようにおっしゃっていました。(18':14"ごろ)

「日本語のほうが全然、大切です。で、言語が分かるのはまあ当たり前で、ドラマなんだから難しいことしゃべってないじゃないですか。ほんとのセリフはね。で、それをいかに短く日本語で的確に、っていうそこが一番問題ですから。それは日本語の問題なので。やっぱり日本語に悩む方が全然多いです

 今回は「言語が分かるのは当たり前」と先にしっかりおっしゃっているので、この発言の真意は、戸田奈津子さんご自身が「英語よりも日本語で悩むことのほうが多い」ということであって、英語ができなくても日本語さえできれば字幕翻訳者になれるとは一言も言っていない、ということが分かると思い、少し安心しました。

 でも、「ドラマだから難しいこと(は)しゃべっていない」というのはやっぱり誤解を招くのではないかなあ、と思いますね。これは私の推測ですが、この発言は彼女なりの謙遜なのだと思います。

 字幕翻訳家が自ら「字幕翻訳というのは高い語学力がなければできない」などと公共の電波で言うと、なんだか偉そうに聞こえると思っていらっしゃるのでは?この前の部分(10':46"ごろ)でもスターたちに愛される理由はと黒柳さんに聞かれ、

私はもう全然自分がそんなに英語も上手じゃないですから、自分はこれだけですってすっからかんにあけすけに見せちゃう。自分をよく見せようとか卑下しようとかそういう気持ちなしにこのままで付き合うと向こうもそのままで付き合ってくれるのかなあと思います」などとおっしゃっているのも同じく謙遜だと思います

 英語が上手くなくてあれだけスムーズなコミュニケーションができるわけありませんから。ご本人は意識的ではないかもしれませんが、ここで「やはり確かな通訳技術があるからだと思います」とはなかなか言えないですし、視聴者もそういう答えが返ってくることは期待していないと思いますから彼女の謙虚な人柄から出た発言だと私は思います、おそらく。

 こういう人当たりの良い、柔らかい答えが返ってくることで視聴者もホッとしたのではないかと思います。

 やはりテレビですから。ガチの通訳理論や翻訳理論などは視聴者から期待されていないのだと思います。どんな場面でも「私はそう大した人間ではないですよ」と発言することが上品であって、粋なのだと思います。

 でもこれはあくまで謙遜の美徳であって、「映画やドラマの英語ではそんなに難しいことは言っていない、苦労するのは日本語だけだ」などと額面通りに受け取ると字幕翻訳家志望者は現実を見たときに「思っていたのと違う」っていうことになると思います。(いや、絶対難しいセリフあるやろ、普通に)

 映画のセリフがそんなに簡単なら、そもそも(少し英語ができる人にとっては)字幕なんていらないじゃないですか。でも、それに反して映画ってかなり英語ができる人でも字幕なしで100%理解することって相当難しいはずです。みんなそれを実感しているから字幕の翻訳家ってすごいな、と憧れるのではないのでしょうか。

 私は仕事としてエンタメの字幕の翻訳をしたことはありませんが、字幕翻訳講座なら受けたことがあります。課題に取り組んでいた時、日本語で悩む前に、英語の理解も難しかったですよ

 映画字幕界の大御所が、テレビの前で上品に謙遜なさっているのを真に受けてはいけないと思います。ドラマに出てくる英語を「そんなに難しくない」と感じるのは、それだけの英語力が当たり前に備わっているからです。



「日本語が上手ければ英語力が高くなくても翻訳できる」は嘘

 映画の字幕に限らず、英日翻訳に必要なのは日本語力だ、は半分真実で半分嘘です。

 英日翻訳に必要なのは(英語力と)日本語力だ、が正しいです。この認識をしっかり持っておかないと「翻訳自体はAIにさせて自分は日本語を手直しするだけでいい」などという誤った認識を持つことになりかねません。

 DeepLに代表される機械翻訳や、ChatGPTに代表される生成系AIで翻訳した場合、その訳文には誤りも当然に含まれることが専門家によって指摘されています。AIの出力に誤りがあった場合、それを指摘して修正するには、当然、英語の解釈が間違っていることに気付くだけの読解力、つまり英語力が必要です。

 AIの出力が100%正しいことを前提にして、原文の英語を見ないで日本語の出力だけを見て日本語を修正することを指して「機械翻訳の修正」とは言いません。

 機械翻訳の訳を原文と照らし合わせながらチェックし、誤りがあれば修正し、ぎこちない訳文があればそれも編集することを業界では「機械翻訳のポストエディット(MTPE)」と言いますが、この作業を行うポストエディターには翻訳者と同等もしくはそれ以上の語学力が求められます。

 MTの出力に誤りが含まれることもあることは一般社団法人アジア太平洋機械翻訳協会/Asia-Pacific Association for Machine Translation (AAMT) 作成の「MTユーザーガイド」にも記載されています。

 翻訳の仕事は2つまたはそれ以上の言語に精通した人にしかできない仕事です。「英語力不問の翻訳の仕事」などあり得ませんので、そういった文言で人を集めようとしている高額翻訳講座などは、評判とキャンセルポリシーを十分に確かめた上で検討することを強くお勧めします。

 AIを使えば英語力がなくても翻訳できる、ではなく、AIを皆が使って自分で翻訳しようとする時代だからこそ、AI以上の語学力と対応力が必要な仕事しか市場に出回ってこない、というのが現状です。

 AIの進化で翻訳者にはますます高い能力が求められています。機械翻訳にかけたけど全く意味をなさなかった、という複雑な原文や訳しづらい原文だけが翻訳案件として出回っているのです。

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